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「人の裏側を、見てみたいと思いませんか?」 初老の男はそう言った。人のよさそうな顔立ちで、当たり前のように優しく微笑む。 「これを使えば、見ることが出来るんですよ。知りたくないですか? 人間の深層心理、表に出ない、簡単には知ることの出来ない思考の波」 取り出したのは群青色の布だった。少し厚めの起毛生地。シーツのように大きなそれをなびかせる。 「お代は必要ありません。ただ少しお時間がかかりますが。……そう」 気がつくとその布を手に取っていた。男はまたゆっくりと笑う。 「それでは……ええと、誰の裏側を見ましょうか。あの人か、いやいやあの人か……ああ、その椅子に座っていてください」 男は大きな黒の鞄を漁りだした。それを横目に椅子に座る。その仕草が緊張でぎこちないことに気付き、ほんの少し苦笑して、それと同時に男がああと声をあげた。 「これがいい。これにしましょう。さあ、もう準備は整った。目を閉じて下さい。ゆったりと、闇の中に溶けるように」 ばさ、と布を上から掛けられる。暖かい暗闇に包まれる。 こちらの体に触れないよう気遣うように、端を少し整えられた。 「……では」 男の声は頭の上から静かに響く。 「人の、裏側へ」 +++++++++++++++ 何もない日。何も起こらない日。困らない日。つまらない日。 気がつけば笑ってしまうほどに何もない日。本当に、苦しくもなく悲しくもなく、心配することもなく、喜ぶことさえもない日。それが今日、今、その時間。 今やっていることが昨日と全く同じと気付く。今からしようと思うことが、さっきと全く同じと気付く。いつから始まって、いつまで続くのか解らない唐突な日常時間。 立っているのは橋の上。見えるのは浅い川。走って来たのは小さな子供。こちらのことなど気にもせずに、川の魚を見始める。 落としてしまおうか。そう考えている。感情は底に沈み、浮かぶそれに構いはしない。ただ言葉だけが表面に浮かび上がる。 落としてしまおうか。この子を落としてしまおうか。 落としても何も変わらないような気がした。そんなことをしても、何も変わらないような気がした。 落としてしまおうか。 手が、ゆっくりと、手すりの上を這う。 駄目だ、とぼんやりと考える。駄目なんだ。取り返しがつかなくなってしまうんだ。 冷えた手のひらを擦り合わせて暖める。駄目だ、駄目だ、駄目だ。 その言葉は心の中に入らなかった。頭で、ただ頭で言葉を並べている。 駄目だ、駄目だ、駄目だ。落としてしまえばどうなるか、ゆっくりと想像する。 ぴくりとも動かない倒れた子供。川の水に広がる血。 大したこと、ない。 想像しても、何も起こりはしなかった。 そうなってしまっても、何も変わらないような気がした。 手が動く。 駄目だ駄目だ駄目だ。 左手を向かわせる。 駄目だ駄目だ駄目だ。 右手を、しっかりと握り締める。 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。 子供が、去っていった。 駄目なんだ。駄目なんだ。 見えるのは浅い川底。 落ちてしまおうか。 何もかも忘れるほど幸せな時は死にたいとは思わない。 何もかも忘れるほど苦しい時は死にたいとは思わない。 でも、色んな事を考えるのも面倒な時はどう思う?何を思う? 何を、する? 何もしない。考えない。ただ、体が望むままに川底を目指し重心をかけ 危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険 明日も何も変わらない。それならば惜しくはな 危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険 惜しくない。むしろ今こそ全てが終わるにふさわ 危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危険危 ぱしゃん。 投げた石は何も言わず川底で水を受ける。逃げた魚は少しすると戻ってきた。 ふと目を離す。もう一度川底に目をやるが、もうどの石を落としたのか探しても解らなかった。 死にたいわけじゃない。 死んでもいいかな、と思っただけ。 そう思っている。今はただ何も変わりはしないから。 それだけ。ただの、いつも通りの、普通の感情。 それはいつも側にある。 +++++++++++++++ 「いかがでした?」 布をはがされ急な光に目をつむる。ゆっくりと慣らしながら、感情を悟られないよう表情を整えた。 当り障りのない言葉をいくつか選び、手短に感想を言う。 「そうですか。……不思議な顔をなさいますね」 男は手馴れた様子で布を畳み、黒い鞄に片付けた。 そういえば、と話をかえる。 あれは一体どんな人の、心の裏側だったんですか? 「おや、気がつきませんでした?」 男は優しく微笑みながらこう言った。 「あなたの、裏側ですよ」 冬冊子用テーマ小説。03年度。 お題は「人の二面性・人の裏側」。 山ヒバ「なにもかも」の元ネタですよ。 05' 1/6UP |