気のくるったもののように、彼女は泣いていた。
怯えているのだった。
身に纏う服はボロきれのようで、繁華街から少しはずれた、性と死の臭いに溢れた路地裏にあまりにも似つかわしすぎて、ぼくは少し笑ってしまった。
ぼくは、女を爪先でつついてみた。
「ひッ」
女はちいさく悲鳴をあげ、涙でぐしょぐしょになった顔をゆっくり上げてぼくを見た。
「………。」
ぼくは、女の、知性と人間性の欠如した表情に酷く胸を打たれた。

それで、彼女を拾って帰ることにした。
―――この日も空は不機嫌だった。


「はい。服」
「…………」
「着替えなよ。ぼろぼろのままじゃイヤだろ。」
女が僅かに頷いたのを見て、ぼくは台所へ向かった。
「ごはん持ってくから。待ってて。」

食事を手に居間に戻ると、女は着替えを済ませて、ただ広いだけの殺風景なぼくの部屋の隅に腰をおろしていた。
彼女がいる風景を、ぼくはいたく気に入った。
「食べたくなったら食べて、好きなときに風呂使っていいよ」
女はまた微かに頷いた。

その日から、ぼくと女の奇妙な同居が始まった。
不思議なことに彼女は、拾ってきたその日から全く一言も喋ってくれないのだった。
どうにかして彼女の声が聴きたいと思った。そこで、ぼくは女に触ったり撫でたり声をかけたり、いろいろな手を尽くした。
彼女はだんだん反抗的な態度をとるようになった。
ぼくはぼくなりに彼女を愛していたので、

ぼくは労働を始めた。
女は、ぼくの労働で生きることには何ら抵抗はないらしかった。

その日も、いつものように勤めを終えて部屋に帰った。
ドアの開く音を聞いた女が狂ったようにかけてきて、ぼくを部屋の外に追い出そうとする。ここ数日はいつもこんな調子だった。
「食べ物持ってきただけだよ。腹減ってるでしょ?心配しなくてもすぐ出てくからさぁ…」
…ここ数日はいつもこんな調子だから、ぼくは近所のウィークリーマンションに寝泊りしていた。
暴れ続ける女の腕を押さえると、その押さえた腕に噛み付かれた、がぶり。じわりとした痛みが腕を這う。
「……。ねぇ。俺はねェ」
彼女は憂えた瞳をして、ぼくとは違う方を見るともなしに見ていた。どうやらぼくの話を聴くのも嫌らしい。
「そう云うのがさっぱり解らないんだ。あなたが思う事、感じる事、ぜんぶ」
「………」
「どうしたらあなたの気に入るのかな」
「………。」
「無償の愛を証明してみせたらいい?自虐的な方法でカタチにしてみせたら、君は喜んでくれる?」
ぼくは左眼に手を伸ばした。女の両の目が見開かれた。
「…ねぇ、愛してるよ」
指先にぐっ、と力を込める。視界が一瞬赤く染まり、目を大きく見開いた女の顔を焼きつけて黒く落ちた。


この一件以来、女はぼくを見ても発狂したようにならなくなった。
(知人の開業医は発狂した「ように」ではなく発狂「している」のではないかとぼくに告げたが気にしないことにした)
理由はわからなかったが、とりあえずぼくは満足した。目玉一つなら安いものだと思った。
ぼくは、彼女を部屋から出すことにした。



「―――えぇ、大変貴重なカワセミの剥製ですよ。絶滅前は川辺などに生息していたらしいですがね」
恰幅のいい雑貨屋の主人は口髭をいじりながら言った。
隣にいる女は、陳列された剥製のガラスケースを食い入るように見つめている。
「しかしこんな物、今となっちゃあ物好きな金持ちしか買いませんからな。ウチでは只の客寄せ同然ですわ!」
店の主人はそういって、少し欠けた前歯を見せて笑った。
もうこの世に存在しないという、翼をもつことを神様に許された小さなイキモノは、狭いせまいガラスケースの中で飛びたつその時を見計らっているようだった。羽を広げるべき空さえ、ここにはもう無いことも知らずに。


「…出、して」


そのとき初めて、ぼくは女の声を聞いた。




「ま…毎度ありがとうございましたぁ!!」

店主の面食らったような声を背に、ぼくらは店を後にした。
何でも買える紙きれなら、ぼくは腐る程持っていた。
女がぼくの前で喋ったのも、ぼくに物をねだったのも、これが初めてだった。

女と並んで歩きながら、ぼくは空を見上げた。
『出して』
初めて聞いた彼女のたった三文字の声を反芻した。
このタールのような色の空に終りがあるとは思えない。青空≠ニいう単語は化石のように色あせてしまって、この灰色が日常だと誰もが疑わないだろう。青空≠ぼくらが失って、もう随分時が経っていた。
ぼくはこのちいさな鳥の屍を買ったことを少し後悔した。…こんな灰色の空を飛んだって意味がないだろう、と。



次の日、仕事から帰ると、女と剥製は部屋に居なかった。何故か空洞になった左眼がちりちり痛んだ。
「遅いな…」
久しぶりに時間を持て余してぼくは何杯目かのコーヒーを口に運んだ。女が家にきてから、一人で過ごす時間がもどかしい。刻まれる秒針だけが妙に耳につくから似合わない鼻歌で掻き消してみたり。


道に迷った?
事故にでも遭った?
それとも鳥を見つけて遠くまで追いかけていった?

そうしたら彼女はもう戻らないだろうか。


ふと外を見ると、濁った空から雪が降り出したところだった。
「うわ、雪だよ…珍しいな」
もっとよく見よう、とベランダに出る。
手すりのところに、何か紙が貼ってあるのが見えた。


『ドウカシアワセニ サヨナラダケドアイシテタ』


さよならだけど愛してた。
きっと何かの冗談だろう。左眼の痛みに気付かないフリをして、ぼくは手すりの下を見下ろした。

生まれたままの姿の彼女が、赤を競って咲く椿のどの花よりも赤い色を撒き散らして静止していた。初めて見るはだかの背中に、カワセミと同じ色をした羽根が見た、気がした。
肌の白さと流れ出た赤のコントラストがまぶしくて偽物のようで、女を拾ったあの日のようにぼくは少しわらった。


さよなら、だけど愛してた


彼女が何者なのかを知る術は無くなってしまった。しかし、そんな事はぼくにとっては最早どうでも良い事だった。
さよならだけど愛してた。その言葉だけでぼくには充分だった。
ぼくはぼくなりに彼女を愛していたので、





灰色の空におわかれを言って、ベランダの手すりに手をかけた。






S文冊子用小説。04年度。少々改変済。
バカみたいに純愛純愛となえながら書いてましたうへへ。



05' 1/6UP