天満月


ひかりが差し込んできた。
つられて夜空を見上げる。雲の切れ間から、満月がのぞいたところだった。仕事づめで疲れた目には、その大きくてまるい月はとても眩しくうつった。
――――満月か。そんなもの久しぶりに見るな。
あ、あの濃淡はクレーターか。そういえば、昔は私も月に住むウサギを信じたりしていたっけ。そんな無垢な幼少時代も自分にはあったのだろうが…疲れた足取りにはその面影は微塵もない。
そうして私は呆けたように月を眺めていた。……その時、ふと、月面の影が人間の顔に見えた。とてもリアルな顔だ。絵のレベルではなく、現実の顔面が月に映っていた。驚いて凝視すると、顔の形をした影はみるみる濃くなっていく。
私は、自分でも思いがけない行動に出た。
「やあお月さん」
私は月に話しかけてみた。
「やあ馬鹿なやつだな。月に話しかけるなんて」と月は答えた。


これがきっかけで、私と月は友達になった。


月は饒舌だった。でもあまり品のいい口のきき方とは言えなかった。性格も、お世辞にも良いとはいえない。自分で言うのもなんだが、私と正反対といえる。それがかえって、友達として付き合いやすかった。空と地上の間の距離感や、月の満ちている時しか話せないという制限も丁度良かった。
この頃私は、月が喋る、ということに何の疑問も持っていなかった。




「うかねぇ顔だな。ヘマでもしたか!」
或る晩、肩を落として帰路につく私に、月が話しかけてきた。
「違うね。おれがヘマなんかするものか。上司の責任転嫁だよ」
あんな野郎なんて、クソくらえだ。そう年甲斐もなく呟いて、路上の空き缶を蹴飛ばしてみたりする。そんな私を、月は馬鹿にして笑った。
「ぎゃっはっは。苦労しとるなぁ人間! んな上司は一発殴って会社辞めちまえ」
「そういう訳にもいかないよ。全く気楽なもんだな」
私の愚痴を肴に月が無責任な事を言い、いかに自分が自由で気まま、多くの人に愛されているかを自慢するのがいつものパターンだ。その晩も結局、月の自慢話に耳を傾けるのに終始した。


いつしか私は、月との会話が楽しみになっていた。最近は、人柄が明るくなった、とも言われるようになった。全ては月と出会った時から……月のおかげ、月さまさまだ。昔の人間が空に浮かぶ月を眺め尊ぶ気持ちがわかった気がする。
とにかく、三十過ぎても独り身だった私は、親身になって話せる友人ができて嬉しかった。



「馬鹿でぇ。また残業かよ」
ひっそりとした夜のオフィスで書類の整理をしていると、月が窓越しに話しかけてきた。他の社員はとっくに退社していて、私一人が居残りをしていた。
「そう言うなよ。これも必要なんだ。」
「同僚が全部お前に押しつけてか?おーおー、美しき自己犠牲、ってヤツだな?立派だねぇ」
 私が黙ると、月はさらにつけあがってきた。
「それともあれか、お前、会社の奴らにいいように使われてるのかもな。とんだお人好しだな、ボランティア社員さん」
うるさい、と私は月に向かって紙くずを放り投げた。紙くずは緩やかなカーブを描いて飛んでいき、窓ガラスに当たってぽとりと落ちた。
「あーあー、そのエネルギーはもうちっと前向きに使ってくれよ。ポジティブに行け、ポジティブに!」
その通りだと思った。



翌日、私は会社を辞めた。未練も後悔もあるにはあるが、くよくよしても始まらないと月が教えてくれた。ポジティブに行くんだ、私。
……会社も辞めたところで、さて、これからどうやって生活していくか。僅かな貯えを切り崩しながら考える日々を送った。
「なんとかならぁ。なんとでもなれってんだよ」と言ったのは月の方だ。無責任だが、幾分気が楽になった。気持ちも少し軽くなったところで、景気づけに一杯飲みに行こうと思った。
 月と出会って、ちょうど一年が経っていた。



居酒屋を何軒かハシゴして、泥酔しながら繁華街を月と散歩していると、同じく酒の入った若者のグループに絡まれた。奴らは四人、こちらは一人。どう見ても分が悪い。
おどおどしていると、見かねた月がヤジを飛ばす。
「何情けない顔してやがる! どんくさいなぁお前は。一発殴って社会の厳しさ教えてやれ」
その言葉に勇気づけられた私は、若者の一人めがけて拳を振り下ろした。しかし、その拳は相手の頬を掠めただけだった。
「あ、その、すみません」
「何すんじゃこのオッサン!」
いきり立った若者たちは、輪になって私に暴行を加えた。圧倒的な力に捩じ伏せられ、私はみっともなく路地に転がった。
「あーぁ、無様だなぁ、見てらんねーよ。もっとやり方があるだろうが」


そうだ。


 倒れた私の目の前に、うまい具合に転がっている酒の空瓶。これだ。
若者たちに蹴られ、殴られながら、その酒瓶に手を伸ばし、奴らのうちの一人の足にぶつけて割った。そうしてできた凶器で、私は反撃に出た。






「月にそそのかされたんです」
深夜の交番で、紫色に腫れあがった痛々しい目の周りを冷やしながら私はそう主張した。警官は、明らかに私を見下した目で、吐き捨てるようにこう言った。
「馬鹿を装ってんのか。月なんかが喋るわけないだろ」
「いや、でも確かに喋ったんです。一年も前から満月のたびに…」
 私は必死に証言する。警官の蔑みの目つきは、心なしか同情の色を帯びていた。
 その年配の景観は、私の肩に手を置いて諭すように言った。
「あのな、宇宙に浮かんでる、あんな岩石のかたまりが口をきくわけがないんだ。わかるか?」


はっ、とした。
……考えてみれば確かにそうだ。月が話すわけがない。
私は、自分の腹の底にある衝動を月に投射していただけだったんだ。我慢が必要だった。自制心も。これまでそうやって生きてきたのに。





そう考えると、自分の心を引き出した月こそが、やはり犯人だという気がした。





S文冊子用小説。04年度winter。少々改変


05' 3/12UP